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1998年

1998年


★もう一度、鹿児島代表として

鹿実、一年前の雪辱を晴らす時。
<鹿児島実3-1川内>
鹿児島で県下の左右エースと言われるほど話題となったのは、鹿実の杉内と、川内の木佐貫(現・巨人)。
川内は春の九州大会でベスト4に勝ち進んだ実力校で、文字通り鹿実の宿敵だった。
甲子園出場の常連校といえど、甲子園への道のりは決して楽ではない年だった。
決勝戦は予想通りの投手戦。
しかし3回、1アウトからレフト前ヒットで出塁した杉内が、川内・木佐貫の暴投のスキをつき3塁へ。
木佐貫が完全にリズムを崩したところを続く3連打で一気に3点を奪った。
鹿実が2年連続で、夏の甲子園へのキップを手にした。


★16Kノーヒットノーランの記録

8月11日第3試合(1回戦)--13:56~15:51
*観衆35,000人
<鹿児島実4-0八戸工大一>


杉内は好調な立ち上がりをみせ、2回の先頭打者まで4者連続奪三振。
4回までに早くも10個の三振を奪う。
杉内の内角を突く速球と大きく縦に割れるカーブに、八戸工大一打線は手も足も出ない。
相手の打線を完璧に抑えこみ、着実に得点を重ねる鹿実。
八戸工大一はそれでもなんとか粘りを見せ、6回ウラに四球でなんとか出塁。
完全試合は免れることができた。
杉内は合計16三振を奪い、夏の大会史上11年ぶりとなる芝草宇宙以来のノーヒットノーランを達成した。
ゲームセットの瞬間、大きく両腕を振り上げガッツポーツをしたその姿には、大きな自信が満ち溢れていた。

「ウィニングボールは母にプレゼントします」
この日は、母・真美子さんの誕生日だった。
そのことを試合の数日前に思い出し「完全試合をする」と周りに宣言していたらしく、昨年からずっと成長した自分の力を、母に一番に見せたかったのだということが伺える。


★大会ナンバーワン投手の証明~平成の"怪物"との対戦

8月16日第3試合(2回戦)--16:28~18:19
*観衆53,000人

<横浜6-0鹿児島実>

息詰まる投手戦。
東西、左右のエース同士の戦いの火蓋は切って落とされた。
5回まで、両チーム無得点。
このまま延長までもつれ込むのかと思うほど、緊迫した空気が球場を包んでいた。
その均衡は6回ウラ、1アウト二塁から三盗に成功した横浜が破る。
ランナーをしきりに気にしている杉内は、集中力が散漫になっていたように見えた。
貴重な先制点が横浜を一気に後押しする。
8回ウラに横浜の打線が爆発。
ついには松坂が2ランを放ち、杉内との決着をつけた。
鹿実打線は9回に息を吹き返したかに思えたが、松坂の変化球を打ち取ることができなかった。
6-0、鹿実は横浜に完封負けを喫する。
帽子を目深にかぶり、泣き顔を見られないようにグラウンドを後にした杉内。
悔しいけれど負けた、と大会の"怪物"への賞賛も忘れなかった。


この年の出来事
★夏の大会前5月に、沖縄水産、日大藤沢との招待試合が鹿児島県立鴨池球場で行われた。
沖水VS鹿実は、先発・新垣と杉内の対戦。
この試合では、杉内が好投を見せ、4-0の完封勝ち。

★当時、テレビ朝日の記者で「ニュースステーション」スポーツ担当の長嶋美奈さんが同局の人気番組「熱闘甲子園」のキャスターに。
高校野球界でもマドンナ的存在となり、一躍時の人となる。

この年は80回の記念大会の名にふさわしく、松坂(横浜)、古木(豊田大谷)、新垣(沖縄水産)など「怪物」揃いと騒がれ、高校野球ファンの層を広げた。そのほかにも快進撃を見せた和田(浜田)や古岡(京都成章)、横浜との死闘が記憶に新しい上重(PL)、寺本(明徳)などが名シーンを生んだ大会でもあった。


※転載などの二次利用はご遠慮ください。
南日本新聞社様、日刊スポーツ様>データその他詳細について参考にさせて頂きました。

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杉内俊哉HISTORY | トラックバック(0)2003/11/04(火)02:52

1997年

1997年


★運命の県大会

1997年夏。
この年は杉内にとってこれからの野球人生を切り拓く礎となる。
鹿児島実業高校(以下・鹿実)は、鹿児島県大会を決勝戦まで勝ち進み、決勝戦は春の県大会の覇者、鹿児島玉龍と対戦。
鹿実は、それまで秋の県大会はベスト4だったものの、春はベスト16
第39回NHK旗ではベスト8と低迷していて、優勝は難しいのではないかと言われていた。
ところが、2年生だった杉内は、そんな前評判もどこ吹く風、周囲も驚く好投ぶりを発揮する。
鹿実の打線も後押しする。
準決勝ではライバル樟南を延長戦の末2-1で下して、決勝へとコマを進めた。
玉龍はスラッガー新保主将を中心とする強力打線を武器に、15年ぶりの決勝進出。
決勝戦は、鹿実打線にまずは火がつき、4回までに8-2と大量リードするも
鹿実の守備の乱れのスキをつき、玉龍の打線の復活で、なんと逆転!
8回ウラには11-8と玉龍がリードしていた。
玉龍にとっては、県大会を制すれば26年ぶり5回目の甲子園への夢がもう目前&。
しかし、鹿実のここぞという場面での集中力、精神力は底知れない力を発揮する。
さらに玉龍にとって運の悪いことに、要だった守備陣が乱れを見せ、鹿実が9回に5点を返して逆転。

9回ウラに玉龍が望みをつなぐ2人のランナーを出すものの、得点には結びつかずゲームセット。
鹿実が、第79回全国高等学校野球選手権鹿児島大会を制した。
この決勝戦は鹿児島市民球場で行われたが、あまりの盛況ぶりに観客が入りきれず
通常は入ることのできない外野スタンドにまで観客が入った。
立ち見、果ては外の歩道橋からの観客もいたそうだ。


  1 2 3 4 5 6 7 8 9  
鹿児島実業 0 4 4 0 0 0 0 0 5 13
鹿児島玉龍 0 2 0 0 5 2 0 2 0 11


★2年生左腕の失速

甲子園には魔物がすんでいる、とよく言われるけれど、それは高校球児たちだけに感じられるものではないらしい。
何度行っても、私自身、球場自体に何かオーラのようなものを感じる。
それだけの伝統と、ここで死闘を繰り広げた多くの者たちの魂が(ってなんかオカルトチックだけど)そうさせるのだろうか。

8月9日(土)第3試合14:32~観衆25,000人
<浜松工4-2鹿児島実>


杉内は初めて、甲子園のマウンドへとやってくる。
地元の多くのファンや記者たちの期待を背に受けて。

試合開始。両チームとも、エースが順調な立ち上がりを見せた。
杉内は得意とするカーブで浜松工打線を6回まで2安打で抑える好投。
打線は、5、6回に1点ずつ加点し、鹿実優勢の流れを作った。
ところが杉内が後半から崩れる。
悪夢を見ているようだった。
7回オモテ。
浜松工の5番を歩かせてしまい6番から3連打を浴び、逆転の3点。
さらに追いうちをかけるように2連打で1点。
完全に試合をひっくり返されてしまう。
頼みの鹿実打線は、浜松工エースのカーブを打ちとれずに悔し涙を飲む。
ついに杉内は7回途中で降板&。
しかし「必ず戻ってくる」との決意で甲子園の砂は持ち帰らなかった。
彼はもう、次の夏の背中を見ていたのだ。



※タイトル、本文は管理人オリジナルです。転載などの二次利用はご遠慮ください。
南日本新聞社様、日刊スポーツ様>試合データその他詳細について参考にさせて頂きました。

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杉内俊哉HISTORY | トラックバック(0)2003/11/03(月)02:24

簡易年表版

1980年~ 福岡県大野城市にて生を受ける。
両親は杉内がお腹にいる9か月の頃、離婚していたらしい。
1987年 大野城市・大野小学校に入学
1990年~

大野城市・大野小学校に入学
小学校1年の頃むかえた反抗期には家の窓ガラスを割るなどしたというが
「当たるところがないと私の胸を叩かせました」
という母・真美子さんの愛情を一身に受けて育てられた。(日本スポーツ出版社より)

小学校3年の頃、大野城少年野球(軟式)に入部。
6年の時には全国大会に出場した。

1993年~ 大野城市・大野中学校に入学
地元の少年硬式野球チーム「大野城ガッツ」に入部。
中学3年のときに、エースとして全国大会で活躍、準優勝に導く。
1996年 大野城ガッツの監督のすすめもあり、鹿児島市・鹿児島実業高校に入学。
福岡県内の強豪校の誘いより、知らない土地・厳しい環境を選んだ。
1997年 高校2年の夏、第79回全国高校野球大会に出場、甲子園の土を踏む。
1回戦第3試合、対浜松工(静岡)戦で先発出場する。
6回まで2安打で抑えていたが、7回途中で降板し、4-2で敗退。
1998年 高校3年。エースとして第80回全国高校野球大会(記念大会)に出場。
8月11日、初戦の対八戸工大一(青森)戦で、夏の大会11年ぶりとなるノーヒット・ノーランを達成する。
この日は最愛の母真美子さんの誕生日。ウイニングボールは最高の誕生日プレゼントとなった。

運命の8月16日。
2回戦の対横浜戦で、松坂との対決。
投手戦と騒がれたこの試合も、8回6失点となり、降板、無念の敗退となる。
1999年 長崎市・三菱重工長崎に入社。
鹿実の久保監督のすすめもあり、社会人野球での経験を積み、3年後のプロ入りを視野に入れてのこと。
この年は肩を痛めてしまう。
2000年 都市対抗野球九州地区予選の2回戦、JR九州戦に先発出場。7回を2安打無失点に抑えた。
準決勝の大分硬式野球倶楽部戦で公式戦初完投を果たす。
決勝戦でも7回からリリーフ、この大会では、最高殊勲勝を受賞した。
シドニー五輪代表に選ばれ、先発した壮行試合のキューバ戦では5回を無失点に抑えた。
シドニー五輪ではアメリカ戦に登板。先発は松坂。2-2の延長11回で、杉内がマウンドへ。
11回は2奪三振、12回は3者凡退。しかし13回、制球の乱れが四球を招き、2ランを浴びる。
2001年 1日3度の食事以外に、数時間おきにプロテインやバナナを詰め込みながらウエートトレーニングを行い、前年に比べ体重は5キロ増、社会人3年目にして15キロ増(17キロとも)の82キロと、逞しくなった。特に下半身強化につとめるため、坂道や急な階段でのランニングをしていたという。
第28回社会人野球日本選手権大会に出場。
1回戦では抑え、準決勝では先発として登板。この大会で三菱重工長崎の初優勝。
11月19日、第37回ドラフト会議で、杉内の希望球団である福岡ダイエーホークスから3巡目指名を受け、プロ入り。
杉内はダイエーから指名が無ければ社会人に残る意思が固かったが、左腕の即戦力投手を欲しがっていたホークスと相思相愛の結果だった。

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杉内俊哉HISTORY | コメント(0) | トラックバック(0)2003/11/02(日)14:32

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ひとこと

ご覧いただきありがとうございます。 WBC情報のまとめが間に合わず、あたふたしております('д`;)
気長にお待ちいただければ幸いです・・申し訳ございません。

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